書:熊谷 清香
新しい年を迎えることができました。
年が明け、皆さんもそれぞれのお正月を迎えたことと思います。一日が過ぎるということだけで考えると、十二月三十一日が一月一日になった、日付が変わっただけともいえます。しかし、このような時間の節目に特別な意味を与えることで、私たちは、それまでの自分を反省し、古い自分を脱ぎ捨てて、新しい自分となる「けじめ」をしているのかもしれません。
さて、仏教は「事実の教え」ともいえます。「如実知見(にょじつちけん)」という言葉があるように、あるがままにものごとを、また自分自身を見ることが仏教の本質です。釈尊の生涯に人間が避けては通れない「老病死」に出遇った「四門出遊」という伝記があります。この出来事は釈尊が出家を志したということ以外に、私たち人間に対する大きな問題提起がなされています。この世に私たちがいのちを受けたということは必ずいつかは死んでいくということです。ところが現実の私たちは、この事実を嫌だといって遠ざけたり、目を塞いだりしています。つまり生きるということと、老いる、病む、死ぬということを別に考えているのです。こういうことを私たちに問いかけているのがこの「四門出遊」という出来事です。
今月の掲示板の言葉を意訳すると「たとえ空に逃げようとも、海のなかに逃げようとも、山に隠れようとも、石の間に隠れようとも、どこに行っても、何人も死ぬという厳粛な事実からは免れることはできない」(『人はなぜ老・病・死で苦しむのか』より抜粋)という意味です。
私たちは生きている限りいつか、死んでいく身です。「どうせ死んでいくのか」と、考えると何だかやりきれない思いもしなくはないです。しかし「生死する身」という事実をまっすぐ見るということは、今現に生きているいのちの意味を尋ねていくということでもあります。
この尋ねていくところに、もしかすると生きるとはどういうことか、そんなヒントがあるかもしれません。